創始者アイダ・ロルフと歴史
ロルフィングという名前の由来になったアイダ・ロルフ博士(Ida Pauline Rolf)は、ニューヨーク・ブロンクスに生まれ育ち、コロンビア大学で生化学の博士号を取得した女性の科学者です。彼女は若いころから自身や家族の健康のために、オステオパシー、ホメオパシー、ヨガなどを学び実践していましたが、人に対する施術を始めたのは、研究者を辞めて主婦になり、40 歳を過ぎた頃でした。
施術を始めるきっかけ
息子のために学校を探していたロルフ博士は、手を怪我した音楽教師に出会いました。様々な治療法を試しても症状が解消されず、ピアノが弾けなくなったと話す相手に、「私を信頼してみない?」と声をかけ、ヨガを応用した施術を行いました。そして、その結果が評判を呼んだので、博士のもとには多くの人々がやって来るようになりました。
この時に行った施術についてロルフ博士は、「秩序を失っている部分が見えたので、そこに秩序をもたらした」と語っています。後に直接指導された生徒たちの証言からも、ロルフ博士は身体の様子が「見える」人だったようです。
筋膜へのアプローチ
その後、1年間カリフォルニアに滞在してある運動法を習い、ニューヨークに戻って施術を続ける中で、柔組織(筋膜)にストレッチや圧を加えると、組織が動くことを発見しました。そしてこの時、「柔組織を本来あるべき位置に動かして身体のバランスを整える」というロルフィングの基本原理が生まれたのです。
カリフォルニアでロルフ博士が習ったのは、Physio Synthesis(身体の統合)という運動法ですが、彼女が自身の技法につけた名前も Structural Integration(構造の統合)でした。つまり最初から博士が目指していたのは、全身のバランスや統合であり、バランスの取れた人間には何が起こるかなど、症状を取り除くことよりも人間の進化の可能性の方に興味を持っていたようです。
筋膜への技法を教え始める
ロルフ博士はずっと施術を行い、探求を続けていましたが、1950 年代になると、知人の勧めで、それまで行って きた技法をオステオパシーやカイロプラクティックの療法家たちに教え始めました。
アメリカ各地だけでなく、カナダやイギリスにも出かけて行きましたが、博士のテクニックを取り入れたい治療家たちと、テクニックの背後にある人間に対するビジョンを伝えたい博士との間には、しばしば志向のズレがありました。
レシピの誕生
また、ロルフ博士が教える際に困難だったことは、生徒たちは、博士と同じように「身体を見る」ことができないということでした。そこで、多くの身体に当てはめることができる施術の手順、「10 回シリーズのレシピ」が考案され、生徒たちはレシピを習い、それを実践していく中で「身体を見る」ことを習得する教育システムが生まれました。
人間性回復運動の潮流に乗る
1960 年代のアメリカでは、主に心理学を中心として、人間の潜在能力を探求しようとする潮流(人間性回復運動)が起こっていましたが、その中心の 1 つに、カリフォルニアのエサレン研究所がありました。人々はそこで温泉や海辺の自然環境に浸りながら、心理療法、身体療法、芸術などを体験し、学ぶことができました。ゲシュタルト療法の創始者 Fritz Perls も当時エサレンの住人でしたが、紹介されてロルフ博士の施術を受けたところ、身体的にも精神的にも健康になったことに感銘し、ロルフ博士の施術がエサレンの活動に取り入れられるようになりました。
エサレンに関わった人々には、時代を代表する心理学者、身体療法家、芸術家などが数多く挙げられますが、エサレンとの出会いは、人間の成長の可能性に興味のあった博士にとって、実りのあるものになりました。そして、それまで Structural Integration(構造の統合)と言っていた博士の技法は、次第にロルフィングという愛称で呼ばれるようになりました。
エサレンには、ロルフ博士の技法だけでなく、その背後にあるビジョンにも耳を傾ける人々が集まってきました。やがて、ロルフィングの施術者(ロルファー)のトレーニングが始まり、さらには博士の代わりにロルファーを養成するインストラクターが誕生していきました。またこの時代には、UCLA でロルフィングの効果の研究が行われ、ロルフ博士のビジョンを記した本の執筆も始まりました。
ロルフ・インスティテュートの設立
70 年代に入ると、ロルファーたちは毎年ミーティングを開いて交流し、ロルフ博士をサポートし、ロルファーの教育とロルフィングの普及活動を行う NPO 団体がカリフォルニアで設立されました。翌年そのオフィスはコロラド州ボルダーに移り、ロルフ・インスティテュートとして今日に至っています。
晩年のアイダ・ロルフ
1977 年には、ロルフ博士がバランスの取れた身体について解説した「Rolfing」が出版されました。それは全身を一つのユニットとしてとらえる前例のない内容の本だったため、図表のイラストも一から準備し何度も書き直すなど、出版までには 10 年近くかかった労作でした。
晩年のロルフ博士は直接指導することは無くなり、たまにクラスを訪問する程度でしたが、病によりほぼ視力を失っていたにもかかわらず、教室の遠いところで実習していた生徒が、要点となる部位に触れていないことを「見ていた」という逸話が残っています。
ロルフ博士の没後
ロルファーを養成するインストラクターが世界各地に誕生し、ロルファーの数が増えるとともに、他の技法や分野の経験を持つ人々がそれらを取り入れることで、ロルフィングの技法の幅も広がっていきました。現在ではアメリカや日本以外にも、ドイツを中心としたヨーロッパ、ブラジル、カナダでロルフィングの協会が設立されて、教育・普及活動が行われています。 ロルフ博士の遺したロルフィングの正式な名称は、Rolfing Structural Integration(構造の統合)ですが、人間や生命現象には未知な領域が多く、今後も新たな発見や気づきがロルフィングの中に「統合」されていくと思われます。
アイダ・ロルフ博士 年表
年 | 概要 | 時代背景 |
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1917 年 | ロックフェラー研究所(現ロックフェラー大学)の研究職に採用され、コロンビア大学でも研究を行う。 | 1914 年に第一次世界大戦が始まると、高等教育を受けた男性たちが戦場に行き、 男性主体の分野に女性が進出する機会が生まれました。 |
1920 年 | コロンビア大学で生化学の博士号を取得。(不飽和脂肪酸についての研究) | |
1920 年代 | Pierre Bernard に師事し、ヨガを実践し始める。 | |
1928 年 | ロックフェラー研究所を退職し、数学と原子物理学を学ぶために、チューリッヒ工科大学に留学。週末には、ホメオパシーを学ぶ。また、パスツール研究所でも生化学を学ぶ。 | この後、家業のために研究者を辞め、やがて結婚して2人の息子の母になりました。 |
1940 年 | 手を負傷した音楽教師に、ヨガの指導を主とした最初の施術を行う。 | |
1940 年代 初頭 |
カリフォルニアに 1 年間滞在し、オステオパシー療法家 Amy Cochran の運動法”Physio Synthesis”を学ぶ。
ニューヨークに帰宅後、柔組織に圧力を加えると動くことを発見し、「柔組織をあるべき位置に動かして身体のバランスを回復する」ロルフィングの基本原理が見出される。 |
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1950 年代 初頭 |
オステオパシーやカイロプラクティックの療法家たちに、施術法を教え始める。 教育システムとして、10 回シリーズのレシピが考案される。 |
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1965 年頃 | 人間性回復運動の中心地だったカリフォルニアのエサレン研究所で施術を始める。彼女の施術は、ロルフィングという愛称で呼ばれるようになり、エサレンでロルフィングの施術者(ロルファー)の養成トレーニングが始まる。 | |
1971 年 | カリフォルニア州でロルファーの NPO 団体が設立される。 | |
1972 年 | コロラド州ボルダーにロルフ・インスティテュートが設立される。 | |
1977 年 | 完成に約 10 年かけた著作「Rolfing」が出版される。 | |
1978 年 | ロルフ・インスティテュートの教育に、ロルフムーブメント(Rolfing Movement Integration)のカリキュラムが加わる。 | |
1979 年 | 3 月 19 日、ペンシルバニア、Bryn Mawr にて死去(享年 83 歳)。 |
出典元:日本ロルフィング協会